大戦前の気分を記したツヴァイクの本を読む。
新聞やなにかで目にする外交政策を記した記事が
まるで自分とは遠いところで起こっていると感じていたと書いている。
サラエボ事件の記事を読んだ後に
何事もなかったかのように読む前にしていたことと同じことを市民が続けている描写があり、
何も分からず、英雄気取りで徴兵され、他国を憎むようになっていく。
100年も前のウィーン、ヨーロッパにあって煽動されていく市民の姿に凍る思いがする。
だが、はたして抵抗しえるのだろうか。私ならその状況下でデフォルトはどこに保ち得るのだろうか。
するりするりと、暗闇が近づき、気づけば肌に密着してくることを私たちはわからない。


ツヴァイクのそれと比べるといささかスケールは小さいが
この歳になって、わからないって事が深刻なほど判断を蝕んでいてると思える。
もっともらしい動機を出来合の言葉ででっちあげたところで、
そんな歯の浮くようなわざとらしいもので自分の身体に鞭打てるのか。
たくさんの人の言葉を目撃できる一方で、今日の語彙の少なさに驚く。
よく仕事で使われるだろう「現場」って言葉が持つある種の陶酔感に
そうしたきな臭さを感じないでもない。
「現場」にいた人々の持つ無抵抗さと英雄気取りが、100年前のことと関連して見えないでもない。