今日は、国土交通省にてセミナーを講習してきました。
営繕部と言われている部署と、住宅・建築部署があり、
前者は、官公庁の施設の構想から設計、マネジメントまでをやっていて、
後者は、いわゆる建築基準法や各種法令の制定に奔走しているのだそうだ。


国交省の地下に、そば専門の食堂があり、すすりながら、
今時「国」を背負って立つことにどれだけのロマンがあるのだろうか。
一企業体として考えた時に、この日本国は将来性に乏しい。
だからこそ、あえて、といったフレーズは僕にはあまりスマートには思えない。
景観法とかいう、法律がつくられたのは、国民として少し情けない。
法や政治に近い官僚の考えていることは今後の経済動向を考える上で一つのバロメータになる。


霞ヶ関から溜池山王で、DeNA社の南場社長のシンポジウムを拝聴。
最もホットな実業家の一人ではないでしょうか。
火の車の会社なんだと伝わりますが、それでもめげない強さがかっこいい。


真っ暗なトンネルの中を光りがあるはずだとして進んでいる。
その表現は会場にシンパシーを持ってもらおうという戦略があった。
続いて、日本から優れたベンチャーマインドが育たないのはなぜか。
と言っていたが、このコンテクストに巧妙さを感じた。


資金を集め、事業を展開する。赤字を繰り返し、業界の負け犬になりかけた時、
ようやく黒字が出る。このようやく、という感じがおもしろい。
会社を起こす、自分でやる。実った時は本当におもしろいんだろうな。
ちっちゃくても、ぎっしり詰まった実は宝石のようだろうな
なんとなく、悔しい、ジェラシー。


塩一トンの読書

塩一トンの読書


それほど、読み切ろうと思った訳ではなかったのに、
次々と目が文を追ってしまい、
いつのまにか、巻末までたどり着いてしまう。


この間、文章を書いてみたため
読む時にどう書いているのだろうという推測が重なってくる。
自分にはたどり着くことのできそうにない立ち振る舞いやユーモアに
直面したときに、僕は「育ちが違う」と感じる。


ひねくれた自分をよく知っているが、
それは自分が受け取ったり、考えたりしたことに懐疑的な検閲機能が発達しているためだ。
薄めてあるアルコールでは酔っぱらえない。そういう意味では私は真剣な酒飲みなのだと考えている。


それゆえに、懐疑的にやっぱりならざるをえない。
疑いから発する、自分の感性はなんとも、「育ちが悪い」。
そんな私の真剣さを尻目に、目の前で薄めてあるアルコールで楽しそうに酔っている人を見ると
彼、彼女は純粋で信じやすいが、私は不誠実なのではないかと自信がなくなる。
そうした純粋さをプレゼンテーションされている時間は私には苦痛であり、
難しく考えないで身体が反応するといった、マニフェストも私にはキナ臭いものに思える。


貿易するのなら、本物のアルコールと密度の高い純金、そういうものを扱いたい。
須賀敦子の文章を読むと、本物って言葉に遭遇する。